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[報告] センポ・スギハァラ

更新日:2023年3月7日

2020年9月17日(木)~22日(火)東京芸術劇場 シアターウエスト にて、劇団銅鑼公演No.55 「センポ・スギハァラ」を、子ども9名、大人31名の会員が鑑賞しました。


1939年9月、ナチス・ドイツが宣戦布告なしにポーランド攻撃を開始し、第二次世界大戦が勃発。その頃、ポーランドには330万人のユダヤ人が住んでいました。

そのナチスの手から逃れて、リトアニアの首都カウナスのアパートに潜むことができたユダヤ人家族たちの逃亡劇と、杉原千畝が居る日本領事館の2つのストーリーが並行して、物語が進んでいきます。

各国の領事館は、ソ連の勧告通りに国外退去するため、早々と閉鎖。ユダヤ人たちに残されたルートは、日本領事館にて通過ビザを発給してもらい、シベリア鉄道でソ連を通過し日本へ渡り、第三国へ渡ることでした。ユダヤ人たちは、日本領事館へ殺到します。

杉原千畝は、「ユダヤ人にビザを発給してよいか」と本国へ電報を打つが、日本政府からは「発給スルナ」との回答。しかし、人道的感情から、外務省からの罷免を覚悟で、領事の権限によってビザの発給を開始します。

噂を聞きつけ、人々はさらに殺到し、杉原は領事館の閉館時間を延長して対応。そして、ソ連からの国外退去勧告に従い、カウナスを出発する列車に乗る直前まで、ビザの発給を行ないました。これが後に「命のビザ」と呼ばれます。

領事館を去る時、周囲を取り囲むユダヤ人たちからは「センポ・スギハァラ!」と賞賛の声が。そこに残っている人々は、もう助かる見込みが無いのに、仲間を助けてくれた彼の信条を称えているのでした。

帰国後、外務省は「訓命違反であり、組織として絶対許せない」という立場を取り、千畝は辞職。その後、政府による名誉回復がなされたのは2000年、千畝の没後14年目でした。


なぜ千畝は、本国に背いてビザの発給を押し切ったのか。そこには、満州国外交部での経験が影響しています。「日本人は中国人に対して、ひどい扱いをしている。」それが我慢できず、でも自分は何もできず、辞めた経緯があったのです。

千畝にとって、一番大事なのは家族。その次は、人道的感情でした。後に彼は大したことをしたわけではない。当然のことをしただけです。」という言葉を残しています。

満州国で千畝と出会い、領事館の料理人となったフーは、千畝への感謝は忘れないが、祖国への想いが強く、国外退去後は満州へ戻る決意をします。ユダヤ人たちと同様、アイデンティティーを感じるエピソードでした。

「自分の価値観とは何か。自分が一番大事にしているものは何か。」と歴史から問われた作品でした。


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